千葉県旭市飯岡漁港 

景観まちづくりフォーラム2018「海辺の復興景観まちづくり」
/千葉県旭市飯岡地区に参加して〈地域レポート01〉

2018.05.26

1.はじめに

 平成30年5月26日、千葉県旭市飯岡地区で開催された景観まちづくりフォーラム2018「海辺の復興景観まちづくり」に参加しました。
 当日のスケジュールは、午前10時JR総武本線飯岡駅に集合、午前中は2時間かけて東日本大震災で被災した飯岡地区の海辺を歩き、復興の様子を見学。午後は、復興に携わった方々とのパネルディスカッションに参加するといったものでした。
 私は当日、東京から電車を乗り継いで伺いましたが、飯岡駅まで約3時間の行程。
千葉駅からさらに1時間半の列車移動とあって、同じ関東圏ながら、かなり遠い印象。車窓から見える最後の30分は、田畑や雑木林の中に家が点々とある景観が続き、かなたの旭市中央病院だけがシンボルタワーのように際立って高く、電車から海が見えないのが残念でした。

2.午前:まち歩き


        写真1: 飯岡駅前       写真2: 刑部岬展望館      写真3: 展望館での説明

 飯岡駅で降りると後援の千葉県が用意したバスが待機しており、出欠確認後、まち歩きの出発地、刑部岬へ移動。刑部岬展望館で地元のボランティアの方に地域の説明を受けました。
印象深かったのは、この地から屏風ヶ浦にかけての崖地は、現在も100年で1mずつ、波の力で削られているとのこと。鎌倉時代は、現在の海岸線から1㎞以上先まで陸地があったことなど。あらためて、この場所が強大な自然の力を受ける海岸線の最先端であることを実感しました。また、ボランティアの方が、「皆さんが今日、津波による被災の跡を期待していらっしゃったのであれば、ほとんど何も残っていません。我々、被災した地域の人間は、当時を思い起こす跡を一刻も早く見えないようにしたいのです。」とおっしゃったことで、展望館から俯瞰しただけではあまり感じられなかった、被災の記憶や被災者の方々の気持ちについても意識しました。


     写真4: まち歩き出発     写真5: 展望館からの景観    写真6: 九十九里浜側を見る


                             写真7: 崖上からの景観(飯岡漁港)

 まち歩きが始まり、展望館がある高台から海岸線を俯瞰しつつ崖地を下ります。
途中でまず海津見(わだつみ)神社を見学しました。海津見とは元々、海神のことで、同様に海の神様を祀る神社が飯岡地区の各所で見られます。また、それぞれに伝承があって、この地区の生活が神事と深くつながっていたことを意識させます。神社の横で、最初のコミュニティーガーデンを発見しました。
 崖地を下りきると、津波の被害にあった飯岡漁港があります。震災当日、津波が防波堤を越えると誰も思っていなかったらしく、当初は物見遊山のつもりで展望館に人が集まっていたようですが、波が堤防を越え、港内の船が木の葉のようにグルグル漂いはじめて、大変なことだと気が付いたようです。津波の後は、護岸に乗り上げた船を、一艘、一艘、クレーンで港内に戻す作業が繰返されたようですが、現在はほぼ元の姿に戻ったそうです。
 漁港を過ぎると海岸線を歩きました。堤防は、震災前の既存堤防の上に約1.5m嵩上げされ、堤防が途切れた場所には、新規の堤防が建設されていました。結果、海岸沿いの住宅地からかつての海岸線が全く見えなくなったようです。そして、こうした状況を見た地元の農業高校生を中心に海岸沿いの道路に花壇を整備する活動が起こったそうです。


      写真8: 海津見神社  写真9: コミュニティーガーデン      写真10: 飯岡漁港


 写真11: 海岸通りの木鳥居    写真12: 海岸通りの歩行路   写真13: 新旧堤防の高低差
                               右下古いコンクリートが旧堤防


                    写真14: 被災した住宅の遺構(左上)と背後の新興住宅


  写真15: 被災後の空地と新興された住宅             写真16: 海岸通りの花壇

 海岸線から離れて途中、住宅地の中も歩きました。震災以降、各所に現在地の海抜を示す看板が整備され、住宅地の中に緊急避難タワーも新設されていました。また、学校の校舎など高い建物には、屋外に避難階段が増設されており、地震時の避難場所になっていました。
 緊急避難タワーに関しては、ボランティアの方から「タワーより山寄りに住んでいる人が、震災時に海寄りのタワーの方に戻ってくるとは思えない。」とか、専門家の方からも「普段は使い道のないタワーに、訓練時や震災時のみ登れと言われても習慣がないから難しいのでは。」といった指摘がありました。このほか、大震災の際、どこまで津波が来たかを示す津波到達地点の道標もたっていましたが、町のかなりの奥まで来ていたことに驚きました。


                           写真17: 緊急避難タワー(左の建物)


写真18: 小学校に増設された避難階段       写真19: 新設された看板  写真20: 津波
                                         到達地点


    写真21: 住宅地の中の神社(玉崎神社)        写真22: 飯岡石の石塁を残す家


           写真23: 路地を抜けるとお墓群が現れる     写真24: 神社裏の坂道

 一方で、住宅地の景観は古い港町の様子をそのまま残した道や伝統的な石積みの壁などが残されており、景観まちづくりの余地はまだたくさんあるなと思いました。 
 住宅地を抜けると再び海岸通りに出て、終着地の潮騒ホテルまで歩きました。潮騒ホテルには防災資料館が併設されており、津波の時間で止まった農協の時計(忘れじの時計)や震災時の写真、復興までに多くの人々やその活動があったことを示す資料が残っています。
 午後1時、まち歩きが終わりました。実りの多い歩行でした。参加者は、4班各10人前後で、40人は居たでしょうか?少数班に分かれたのも、各班に付いてくれたボランティアの方にいろいろ質問出来て良かったと思います。午後のパネルディスカッションまでの30分の間、堤防を越えて海辺に出てみました。晴れていたので、サーフィンや釣りに興じる若い世代の人たちで結構な人出でした。


         写真25: 防災資料館。左に見える5時27分で止まった時計が“忘れじの時計”


   写真26: 館内展示風景    写真27: 津波避難場所の看板   写真28: 仮設住宅の1室

3.午後:パネルディスカッション

 防災資料館の館長さん、地元NPO団体の方、我孫子でも活動されている太田さん、千葉県立旭農業高校の先生と生徒さんが、今までの活動を報告しました。
 午前中、震災の生々しい写真や新設された堤防が街並みと海を切り離した現況を見たせいでしょうか?大人の方々の報告より、農業高校の学生さんの花壇づくりなど、目に見える活動の方に復興の可能性を感じました。また、飯岡文学賞で選ばれた地元の女性(70代)の方言による朗読にも感心しました。
午後の部は、参加者の帰り時間を気にしてか、発表後に千葉大の先生がコメントした後、再度、パネリストが抱負を語った段階で、残念ながら参加者とのやり取りが割愛されて終了しました。


                            写真29: パネルディスカッション風景

4.感想

 復興の経過報告といった感じの会でした。
 震災後の飯岡地区について考える比較的、高齢な参加者のシンポジウムが開かれている一方で、同じ町の海辺では、地元ではないかもしれませんが、若い世代がサーフィンや釣りに興じている・・・・。
彼らを議論の場に引っ張る魅力やエネルギーが今後の問題ではないかと感じました。それ故、若い高校生のエネルギーに満ちた活動や、ご高齢であっても地元愛に満ちた朗読に心惹かれたのだと思います。
 今後、どんな景観の海岸通りにしたいのか、若い世代を巻き込んだ試みや、レジャーに利用している人々の意見を聞くような工夫はあるのかな?と思いました。
 翻って同じことが様々な地方自治体でも言えると思いますが、「あそ(遊)防災、まな(学)防災」と言うパネリストの言葉にも素直に共感出来なかった理由は、復興に真っ直ぐな若い高校生のエネルギーと、大人のキャッチフレーズの間に、ギャップと距離を感じたためではないかと思いました。自戒も含め、色々なことを考えさせられました。(文:野口修)